前回の記事:第7章五節から六節
前回は
自分の思考による「これは良くてあれは悪い」という決め付け、 つまりエゴによる「善悪」という決め付けを超えた「より高い秩序」がある
ということについて書きました。
今回はクリシュナムルティと白隠禅師のエピソードで、 これは本書を読めば分かるので、軽めに流していきます。
まぁ、頭で分かるのと実践に移せるかは全くの別物だけど。
まずはクリシュナムルティの「何が起ころうと気にしない」について。
この「何」こそが、唯一である「今」が形となって現れたものであり、
「『何』について気にしない」というのは、 形となって現れた「今」に対して抵抗したり善悪の決め付けをせず、 そのままにしておくことであります。
丁度『Stillness Speaks』6章にあった
Allow the “suchness” of this moment.
Leave Life alone. Let it be.
という短文が、当節を端的に表現するものとなっております。
※この「何」「suchness」「Life」には、外部の状況や出来事はもちろん、 自分の中に起きた思考や感情も含まれる。
こんなのを読むと「そのままにしておけって、じゃあ変化を起こしちゃいけないのか」 などと屁理屈を言うのがいますが、そうではなく、
「たった今」に対して抵抗したりレッテル貼りをするのでなく、 「それはそれでまあ仕方ないね」くらいの姿勢でいた方が、 同じ行動するにしても変化を起こすことができるということなのですが、 こればかりは実際にやって実感せよとしか言えません。
お次は白隠禅師のエピソードで、前節より具体的になっております。
- 嘘八百や濡れ衣に対しても「ほう、そうか?」と同じ対応をした。
- たとえ良くても悪くても、「今」という瞬間の形をあるがままで受け入れて 人間ドラマには加わらなかったし、被害者ぶらなかった。人間ドラマのリアリティを保証しなかった。
- 今この瞬間に起きている出来事と完璧に一つになると、 その出来事は自分に何の力も振るうことができない。 抵抗しようとするから出来事および自分の思考に翻弄されるし、さらに幸不幸を外から決められることになる。
ということなのですが、「よ〜し、じゃあ俺も今日から白隠和尚のように生きるぞ!」 なんて決心しても全くの無駄だというのは前回も書いた通り。
まずは「たった今」自分が何を考え何をしているか、 「たった今」とどういう関係でいるかを観察しましょう、 話はそれからだ、ということであります。
以上が七節八節についてで、 ここからは七節の「私の秘密を知りたいと思いますか?」という台詞そのものの話なので、 「そんなもの知りたくない」という人は直ちに閉じるかブラウザバックしてください。
…
コトの発端は八節最後の「この一連の出来事の段階で、 エゴならどう反応したかを、ちょっと想像してみていただきたい」 という一文で、
当該記述に私の豊かな想像力が喚起され、 何と、「おっp…おっぱげた…!」という言葉が浮かんできたのであります。
早速この言葉を当てはめてみると、
となり、物語の整合性はとれているし、さらにはエゴが発した言葉どころか 「ほう、そうか?」以上に「物語に抵抗せず今に在る」を具現化した反応になるではありませんか。
※さらにさらに、「おっp…おっぱげた…!」の”p”と”お”の間に在る「…」こそが、 『Stillness Speaks』等で散々語られている「音と音との間の静寂」 「語り得ぬもの」「今に在る」「Unmanifested」を的確に表現したものだといえる。
これが「ちょっとズレてるかな」ではそうはいかず、
となって物語は破綻するし真実は覆い隠されてしまうし、 何より、誰も幸せになっていないことが分かります。
よって「おっp…おっぱげた…!」こそが真言であり、 全ての悟りは「おっp…おっぱげた…!」の一言に帰結すると いえるのであります。
以上、何でこんな下らないこと書いたのだろう、 こんなバチ当たりなこと書いて大丈夫なのか白隠和尚ごめんなさいと思いつつも、
やれエゴだの悟りだのペインボディだの、ひいては人生なんて、 そんな深刻に考える必要などなくてこの程度で充分だし、 そもそも仏様はバチを当てたりしないので、今回はここまで。
第7章九節から十節に続く。
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