第2章三節から五節:解説まとめ『ニューアース』完全版

前回の記事:第2章一節から二節

前回は2章二節までやって今回は三節からですが、 三節は著者の体験談なので特に解説することがありません。

しいて挙げるなら、「性の喜びおじさん」とか「その心笑ってるねおばさん」とか 「ゲームのカード落としちゃった人」とか、 ああいう方々の動画を見てゲラゲラ笑っている人も「何て不謹慎なんだ!」と憤って非難する人も、

絶え間なくリピートしている頭の声に乗っ取られており、 しかもその「乗っ取られている」ことにすら気付いていない点において、 動画でネタにされている彼らと本質的には何ら変わらない、 誰もが等しく無意識状態であるというのは当節に書いてある通りで、 やっぱりエゴは個人的なものではないことが分かります。

2章四節 エゴの中身と構造 Content and Structure of the Ego

そんなわけで?第四節。

もう何度も書いてきた通りですが、 エゴ的なマインドは完全に過去によって条件付けられていて、

という、「中身」と「構造」の2つの面があるとのこと。

要するに、過去(多分幼稚園入園前頃)から現在に至るまでの経験によって、 「中身」の具体的内容や「構造」の強弱が決定されているということです。

「モノの所有」に自分を同一化している場合を例に挙げると、 自分の愛用している時計、パテックのノーチラス(これがエゴの中身) を落としたりぶつけて傷つけた場合、まるで「自分が損なわれた、傷ついた」ように感じ、 あやまって壊そうものなら最早生きていけないかのように感じてしまうのです。

※実はその所有物が300万円のノーチラスだろうが1000円のチープカシオだろうが、 中身なんてどうでもよく「『私の所有する』ノーチラスが傷ついた!」という「エゴの構造」 こそが苦しみの原因であるというのは、当節にある通り。 (少なくとも、ノーチラスがチプカシよりも苦しみが3000倍ということは絶対にない。 感度3000倍じゃあるまいし

そして「ノーチラス=自分」という思考に乗っ取られ、 ロレックスをつけている人には「ふん貧乏人め」と優越感を感じ、 金無垢のノーチラスをつけている人には「悪趣味な成金が!」 と劣等感を感じたりして日々を過ごすのですが、

完全に「ノーチラス=自分」とすることはできないのでエゴは全く満足せず 「おかしい、オレは天下のノーチラスを所有しているのに、この『物足りなさ』は何だ」 ということになり、

今度はカラトラバを買ったり、 さらにはヴァシュロンやオーデマピゲにも手を出したりするのですが、 やはりその「物足りなさ」は満たされないままなのであります。

こうやって書くとまるで気違い沙汰ですが、 殆どの人間がやっているのはまさにこの気違い沙汰で、 上記「ノーチラス」を「東大卒」という経歴に変えたらモロに私のパターンになるし、 これを読んでいる人も身に覚えがあるでしょう(無いとは言わせんぞ)。

ともかく、この「普通の世界」の「普通の人々」は、 過去(主に幼少期)満たされなかった等の体験を元にして、 身体、思考、学歴、名声、モノなど数ある「形」の中から執着の対象「エゴの中身」を決定し、

そしてその対象をどれくらい求めて執着するか、 自分を同一化させるかという「エゴの構造」の強弱を決定し、

そのような執着、 形に囚われていることに気付かないまま「普通の人生」を生きているのであります。

2章五節 アイデンティティとしてのモノ Identification with Things

次に五節の「アイデンティティとしてのモノ」についてですが、 上記四節で既に具体例を挙げたので補足程度。

で、何でパテックの例を挙げたかというと、 パテックフィリップは当節で述べられている「ブランド品」の典型であり、 その高価さゆえに極めて排他的だからであります。

しかも、パテックフィリップの愛好者にはあのアインシュタインやエリザベス女王なんて面子がいて、 パテックを装着すると何だか自分が「特別な人間」になったような気になるというのも、当節にある通り。

サガ2のロボットか何かみたいにアインシュタインと同じ時計を装備して 同程度のオツムになれりゃ世話ないのですが、 実際はパテックをハメても一般相対性理論どころか特殊相対性理論すら理解できないままの人間が大半で、 それでアインシュタインと同じだなんて傍から見れば滑稽千万であります。

※こんな下らない悪口もアイデンティティが「時計」から 「知能」「学歴」にすり替わったに過ぎず、極めて排他的であり、 こんなことを言う人間もパテックをハメて喜んでいる人間同様、無様で滑稽千万である。 ホラ、中身は違えどエゴの構造はどれも同じだろう?

それはともかく、レアアイテムをゲットすることで自分を「選ばれた特別な人間」にみせたいがため、 時計としての性能がチープカシオよりも劣るパテックをプレミア価格で買ったり、 スーパーのビニール袋よりも性能が劣るバーキンを血眼になって探したりし、 他人と所有アイテムを比較して「優れた人間or劣った人間」と決めつけるのが、 エゴに支配された「普通の人間」なわけです。

ただし、そういったレアアイテムと自分とは完全に同一化できないため、 本当に「選ばれた特別な人間」になることは不可能であり、 何をゲットしても「取るに足らないちっぽけな自分」はずっとついて回るので、

「もっともっとレアアイテムをゲットしよう。 そうすれば『いつの日か』私は本当に特別な人間になり、幸せになれるだろう」 とキリが無く、

その尽きることないモノへの執着と強迫観念によって消費社会が成り立っており、 広告業界はモノへの執着と強迫観念を煽りまくっているというも当節にある通り。

このように、モノを通して自分の価値を高めようとしてもロクなことにならず、 待ち受けているのはキリのない苦しみと最後は破滅だけなのですが、 なにぶん「普通」のことなので気付いてすらいないのが現状なのです。

じゃあどうすれば良いのかというと、 当節にあるのは「モノとの関係を正直に見直そう」ということ。

このようなことを「正直に」観察してみましょう。

要するに、

いずれ崩れ去る「モノ」という形に対して「モノにより人間が判断される」という先入観を持ち、 モノを自分と同一化してエゴの強化に使おうとすると、 モノに宿る「生命」「エネルギー」は感じられず「言葉や思考や概念の世界」「死んだ世界」を生きることになる。 そこで生まれるのは「もっともっと」という強迫観念と執着ばかり

という「狂気の世界」を生きていることに気付きましょう、 気付けば自然と何かが現れてきますよ、ということであります。

以上、長くなったけど今回はここまで。

第2章六節に続く。

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