『歎異抄』について語る10

前回の記事:『歎異抄』について語る9

早いものでこの歎異抄についての素晴らしい解説記事も今回で10回目。

最初はカルトや真宗あたりからいつ脅迫が届くかとビクビク(感じているわけではない)しておりましたが、 そういう気配もなさそうなので一安心でございます。というか誰も見てないやろこんなサイト。

幸いにもこれを読まれている貴方は、歎異抄についてちょっとは興味を持たれたのではないでしょうか。

そして、阿弥陀如来の本願の本質中の本質である「歎異抄ぉ^〜」という、他力本願を真に具現化した挨拶が、 自然と出てくるようになってきた頃ではないでしょうか。

そんな寝言は置いといて今回は十四章から。

十四章:念仏を唱えようとするのも自力である

そんな十四章で書かれていることは、

「臨終の間際に一回念仏すれば罪が消えて救われる」「十回念仏すれば十倍罪が消えて救われる」

なんていうトンチキな見解が(鎌倉時代の)世の中にあるというもの。

「罪滅ぼしのために念仏する」なんていうのはモロに自力の考え方で、 もし念仏して罪が消えるならば、煩悩まみれの凡夫である我々は、 死ぬまでずっと念仏し続けなきゃいけないじゃんアゼルバイジャンと書かれてある通りで、

念仏とはそういうものではなく、念仏しようがしようがしまいが最終的には皆救済されるのであります。

じゃあ生きている間にする念仏って何なのという話ですが、これも書かれている通りで、 我々のような煩悩まみれの凡夫でも極楽浄土へ導いてくださる阿弥陀如来のお慈悲に感謝する念仏であるとのこと。

要は再三再四書かれている通り、「自力ではなく阿弥陀仏の他力にすがれ」という話でございます。

十五章:「悟り」とは幼稚な理想論

お次は「この世で悟りを開く」について。

この物質世界で悟りを開くなんて「もつてのほか」と唯円は断定しておりますし、 親鸞も同意見だったのでしょう。

世間一般での「悟り」の認識、つまり

「悟り=煩悩(エゴ)を超越し煩悩を0にすること」

だと定義すると、こんなもの無理ゲーも無理ゲーで、 実現するには出羽三山の即身仏みたいにならなきゃいけない、 つまり「マジで御陀仏しなきゃならない」というのは賢明な読者の方ならお分かりでしょう。

そもそもの話、悟りに対する認識というものが幼稚な理想論、つまり

「悟ると何事にも動じず苦しまなくなる」「悟ると喜怒哀楽がなくなり常に平常心になる」 「悟ると現状が改善して『良いこと』しか起きなくなる」「悟ると人々からチヤホヤされて崇拝されるようになる」

なんていう下らない理想論ばかりじゃないですか。こんなバカなことあるわけないだろう。 こうなるのはそれこそ即身仏くらいのものやでホンマ。

なので、悟るためには自力で悟ろうとするのではなく阿弥陀如来の他力におすがりするしかないのでありますが、

鎌倉時代から現在に到るまで他の方法、 自力で悟る方法なんてものが出現していない(カルトをはじめとする偽物ならワンサカ出てきたが) ということは、親鸞の意見が正しかったということです。

まあ、悟ることはできずとも、言葉でもって真理を指し示すことは可能で、 その一つが般若心経であると私は思います。

本当にゴータマ・シッダールタが般若心経の作者なのかは不明だけど、

「この物質で構成されているようにみえる世界は、実は原子等エネルギーの集合体、エネルギーの濃淡で構成された世界であり、 それを人間の五感や思考を通して認識しているに過ぎない」

「そして、その人間の五感や思考や認識なんてものについてもエネルギーに過ぎず、 単にエネルギーを人間の脳(その脳もエネルギーの集合体)で解釈した幻想に過ぎない」

なんていう真理を、電子顕微鏡も存在していない時代に思い付いた人は天才中の天才でしょうホンマに。 一体何食ったらそんな発想が出てくるんだという話ですな。

そういう天才なら悟りの一つや二つ開けるかもしれんけど、 私たち煩悩まみれの凡夫は他力、阿弥陀如来のお慈悲^〜にすがるしかないのであります。

以上、今回はここまで。

歎異抄ぉ^〜(悟りな挨拶)

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