前回の記事:第4章九節から十一節
前回は「苦しみに抵抗せず意識して苦しもう」「他人にもBeingを見出そう」 ということを書きました。
今回はエゴがなぜ役割を演じるのかとか、 何でわざわざネガティブなことを考えたり ネガティブな反応をして苦しむのかについて。
これらは本書を通して何度も書かれていることで、 別に今回に限ったことではないのですが、 一節ずつ書いていくと宣言して実践しているので、 その通りに書いていきます。
※ところでこの「宣言して実践する」というのは、 サイト作成や受験勉強や相場取引等に限らず、 引き寄せ界隈でも重要だと散々言われているし基本中の基本だと認識しているのだが、 引き寄せ信者できちんと宣言して実践している人、どれだけいるのだろう?
まぁそれは置いといて、 当節の最後らへんには何でエゴが役割を演じるのかが書かれていて、 それは「きちんと検討されていない無意識の思考のせい」だとのこと。
そのデッチ上げの無意識の思考とは、
という思い込みのことで、モノの所有、身体、他人や状況に対する批判など、 今まで読んできたエゴの活動と動機、原因は全く同じです。
そして、私という存在、形を超えた本質であるBeingは、 誰にも劣っていないし優れてもいないし、 もっと獲得してもっと存在することなどできない。 私は既に私であるから、というのも今までの通り。
ただ、当節にある
- 役割を演じること、自分を思考で定義することをやめましょう。
- 何をするにしても、役割というアイデンティティを守ったり強化したり 役割に自分をハメ込むために行動するのでなく、ただ目的を達成するために行動しましょう。
- 他人を定義するのをやめて「今に在る」場として他人と接しましょう。
- 他人を定義する人間たちは、当人自身をも思考で定義して制限をかけています。 それは当人たちの問題なので、他人が自分をどう定義しているかを気にするのもやめましょう。
なんて記述を読んで、 「ハイ、じゃあそうします」 とならないのは散々書いてきた通りで、
やっぱり自分が自身をどう定義しているか、 日々の中で出会う他人をどう定義しているか、 行動するときどんな役割を演じているか、 一つ一つ観察して気付いていくしかないのです。
次はこれ。「病的」は「苦」とも「気違い沙汰」とも言い換え可能ですが、 その病的なエゴが本当に心身に病を引き起こすというのは当節にある通り。
しかし、エゴに囚われている人間はエゴが引き起こしている苦しみを苦しみと認めず、 「これこそが唯一の適切な対応だ!」と正当化し、 さらに「オレの苦痛は周囲のせいだ、お前のせいだ!」と正当化するのです。
なんでこんな周りが見えない「盲目状態」になるのかというと、 エゴは「状況自体」と「状況に対する解釈」を区別できないからで、
たとえば、天気という状況は常にニュートラルであるがままなのに、 状況に対してエゴが抵抗するため、雨の日に「酷い天気だ!!」と腹を立てるわけで、 これは別に天気に限ったことではないというのは賢明な読者ならお分かりでしょう。
さらに、エゴによる怒りや恨みで他者や状況との分離を強め、 「オレは正義」という錦の御旗を生み出してエゴは大幅に強化されるわけで、 これも苦しみの一形態であり、こんなことをやっていると心身ともに蝕まれていくわけです。
なので当節には、
- 怒り恨みなどネガティブな状態になるとき、私の内には必ずその状態を望む「何者か」がいる。 ネガティブ状態を喜び、ネガティブになれば欲しいものが手に入ると信じている何者かがいる。 そうでなければ、わざわざ自分を惨めにして病を引き起こすネガティブな状態になんてならない。
- そのネガティブを望む、ネガティブを目的達成に役立つと考えている「何者か」に気付けたなら、 私はまさにエゴに気付いたことになる。
- 「たった今この瞬間、私は自分で苦しみを作り出して苦しんでいる」という気付き、 それだけで条件付けられたエゴイスティックな状態と反応という限界を乗り越えることができ、 無限の可能性が開ける。
ということが書かれているのですが、簡単に言うと
頭にきたりイライラしたり不安なとき、「あれが悪いアイツが悪い」と言い訳せずに、 素直に「自分の中にネガティブがある」「私はネガティブ状態になっている」 「ネガティブ感じるんでしたよね」と認めて観察する
ということで、自分が感じているネガティブに気付き観察することで、 ネガティブを生み出し強化の手段に用いているエゴに気付くというわけです。
以上、今回はここまで。
第4章十四節から十五節に続く。
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